量子コンピュータが拓く次世代創薬 〜QunaSys × 中外製薬の化学反応〜
創薬における新薬開発は、膨大な化合物の組み合わせから最適な候補を見つけ出す複雑な過程であり、従来型のコンピューターでは計算に莫大な時間とコストを要します。そんな中、量子力学の原理を活用した量子コンピューターが、創薬プロセスを革新的に変える可能性として注目を集めています。2023年4月から9月にかけて、QunaSysと中外製薬は創薬ワークショップを通じて、創薬周辺分野における量子コンピュータ産業利用の可能性について議論を重ねてきました。今回は、その取り組みに関わった量子コンピューターの実用化を目指すQunaSysの松岡智代氏と、創薬の最前線で研究開発に携わる中外製薬の荒川晶彦にインタビュー。量子技術が製薬業界にもたらす可能性や、実用化に向けた課題、そして業界の垣根を越えた協業の重要性について考えます。
プロフィール
松岡智代(株式会社QunaSys 最高執行責任者(chief operational officer, COO))
京都大学工学研究科にて博士号を取得後、アーサー・ディ・リトル・ジャパン株式会社に参画。素材業界のイノベーション創出、新規事業開拓をテーマとして、国内外の多くの企業のプロジェクトに従事。化学・素材・自動車を中心とした製造業に対する新規事業戦略/中長期戦略の策定支援、及び、一般的なデューデリジェンスや官公庁案件、大学の産学連携組織を対象とした案件等に携わる。2020年1月よりQunaSysに参画。量子コンピューターのソフトウェア開発を主事業とする当社において、主に化学産業向けのアプリケーション開発・事業開発、政府渉外、エコシステム形成活動等を統括。
荒川晶彦(中外製薬株式会社 創薬化学研究部)
研究本部 創薬化学研究部先端計算化学グループ所属。計算化学創薬をバックグラウンドとして実際の創薬プロジェクを推進。量子パートナーとの量子コンピューターに関する技術開発にも従事。
1. 量子コンピューターの可能性
―まずは量子コンピューターの特徴について教えていただけますか?
松岡:そうですね。私が普段説明しているのは、量子コンピューターというのは今使っている従来型のコンピューターとは全く違う動作で動くコンピューターだということです。その動作原理にピタリとはまっている問題については、すごく速くなるんです。ただし、何でも速くなるわけではないんですけれども。
産業界への貢献の仕方は、私は2つあると思っています。1つは、すごく難しい理論モデルを解くという使い方。もう1つは、膨大にパラメーターがある中で因果関係を見いだしていくという使い方です。例えばヘルスケアでいうと、デジタルツインのような形でAIの限界突破を目指すとか、実際の遺伝子の構造情報から疾患との因果を見いだすとか、そういった可能性があるんじゃないかと思っています。
―荒川さん、今の説明を聞いて、製薬業界としての期待や可能性についてどう感じられますか?
荒川:正直なところ、今の状況としては、創薬分野でどう活用できるのかはまだ手探りの段階です。ただ、松岡さんがおっしゃった「すごく難しい理論モデルを解く」の部分、例えば高精度の物理化学的なシミュレーションに期待を持っています。従来の計算機が解けない精度の計算が実現できるとか、すごく時間がかかってしまう計算を現実的な時間で実行できるようになるとか。あとは、いろんなパラメーターの最適化というのも量子コンピューターの強みだと思うので、そこも期待しているところです。
―創薬分野ならではの特徴や課題について、お二人の見解を聞かせてください。
松岡:製薬業界の面白いところは、R&D費用が莫大に使えるというところですね。新しい技術への投資という意味では、他の領域よりもちゃんと見てくれる。一方で、すごくシビアに確率で当たるものを見つけにいってる業界なので、投資すべきかどうかの判断も非常に厳格です。
私が課題だと感じているのは、化学とかだと環境を制御してシミュレーション通りに材料を作れるんですけど、生体内の反応というのは、どうしてもシミュレーションでは扱い切れない情報が出てくるんです。でも、だからこそ量子コンピューターが活きるかもしれない。普通のコンピューターでは取り入れられなかった不確実な要素も含めて、シミュレーションできる可能性があるんです。
荒川:そうですね。創薬で扱う計算では、動きを伴う生体高分子を扱わなければいけないですし、水分子とかイオンとか脂質とかの影響も大きいです。そこが確かに難しさではありますね。ただ、そういった複雑でスケールの大きな計算対象に適したシミュレーション手法はあるので、まずはそれを活用しながら、量子コンピューターが活きる計算手法もうまく組み合わせていければと考えています。
2. 「もう一息」を突き詰める
―創薬のプロセスは非常に長くて複雑だと思うのですが、現状どういった課題を抱えているのでしょうか?
荒川:創薬研究の課題としては、まず疾患や標的を決定して、それに作用するヒットを同定し、それを最適化して医薬品に仕上げていきます。個人的にはどのステップもハードルは上がっているように思います。創薬しやすい標的がなかなか見つからないとか、有望な標的が見つかってもそれに作用する薬物を取得することが難しいとか。
今の技術でできることは他社も既に取り組んでいることも多く、その中で新薬を見つけていくことの難しさは増しています。今の技術を使い続けるだけでは、創薬研究にかかる時間とコストの上昇を避けられないのではないでしょうか。
―量子コンピューターはそのあたりの課題解決に貢献できそうですか?
荒川:貢献できるポテンシャル・余地は十分あると思います。量子コンピューターを中外製薬の創薬研究に上手く取り入れることで、課題解決につなげられないかと考えています。
中外製薬の創薬は次世代抗体医薬技術、低分子医薬技術、そして中分子医薬技術といった革新的な創薬技術、モダリティが強みです。これらの創薬技術と量子コンピューターを上手く融合して、従来のアプローチとは違った切り口の研究を展開できればと思っています。
―具体的にどんな場面で量子コンピューターが使えそうですか?
荒川:例えば、どのモダリティでも共通して言えることですが、中外製薬の創薬研究では“最高の品質を持った開発分子を追求することを1つのポリシーとして持っています。そういった背景の下で、実験で思いつくことを試した後に「もう一息」薬理活性を強くしたい、選択性を高めたい、といった場面が出てきます。従来の計算では、「もう一息」のちょっとした差を精度高く予測することはかなり難しいです。そこで量子コンピューターを使って分子の電子状態まで加味した高精度シミュレーションにより、こうすれば「もう一息」を実現できるということを示してくれないかと期待しています。
松岡:QunaSysでは、アグレッシブな中長期目標として、高精度の量子化学計算で一般的な低分子化合物や数残基ほどのペプチド鎖の量子化学計算を10時間で解くことを目標としています。
荒川:必ずしも分子全体を扱う必要はないと思っています。例えば、ベンゼン環にフルオロ基やクロロ基を付加していく場合に、変えた部分にフォーカスした領域には量子コンピューターを適用し、残りの領域は従来の計算を適用する、というようなアプローチもあると思います。そういった従来の手法と組み合わせることで、もう一息の差を予測したいですね。
松岡:そういう意味では、今の目標で達成きるかもしれないですね。
―実際に量子コンピューターを使った研究は始められているんですか?
荒川:海外の製薬企業の中には実機を使って検証されている企業もいますが、実用化まではまではまだハードルが高いのではないでしょうか。弊社としても、どの段階で実機を使った検証を進めるか、あるいは実機を使う前にシミュレーターで検証するかなど、適切なタイミングを探っているところです。
松岡:実は量子コンピューターのアルゴリズムって、スケールによって同じように動くかどうかがまだちゃんと担保されてないんですよ。小さな分子に対してうまくいったアルゴリズムが、分子を少し大きくしたときでも同じように動作するかっていう検証を、何回も繰り返していかないといけない。
だから、できてからポンと使えるというものではなくて、ある程度技術を作って、それを実機に合わせて使えるものにしていくというプロセスが必要なんです。実は皆さんが思っているよりも、その実機に合わせた開発が必要になってくる。そういう意味では、できてから使うというよりは、今から少しずつ実機上で検証していただくことに大きな意味があるんです。
―シミュレーターと実機の違いについて、もう少し詳しく教えていただけますか?
松岡:シミュレーターというのは、量子コンピューターの動きを普通のコンピューター上で模倣するものなんです。量子の加速が必要ない範囲なら、むしろシミュレーターのほうが使いやすい面もある。ノイズもないですしね。
でも、シミュレーターの一番の問題は、普通のコンピューターでできる範囲までしかできないということ。実機がほんとにスケールしていったら、シミュレーターではシミュレーションできない領域に来るんです。そこからが量子コンピューターの本領を発揮する、そんなイメージです。
荒川:なるほど。そう考えると、まずは古典コンピューターでできる量子化学計算の限界を見極めた上で、どういうことを予測したいのかというニーズをより具体化していく必要がありますね。
松岡:そうなんです。量子コンピューターの技術動向も見据えながら、うまくすり合わせていければと思います。
3. なぜ今、製薬×量子テック連携なのか?
―量子コンピューティングを用いた創薬研究において、スタートアップやテック企業と製薬企業の連携はなぜ重要なのでしょうか?
荒川:製薬企業単独で量子コンピューターに取り組もうとしても、実機にどうやってアクセスするのか? アプリケーションも何に使えるのか、どうやって開発するか? といったハードとソフトの両面で課題があるからです。そういった時にスタートアップやテック企業と連携したり、様々な業界の方々とユースケースを考えたりすることが、第一歩として重要になります。
松岡:私たち量子コンピューター業界は物理の人間が多いので、産業で解きたい問題、本当に見たいところは何なのかが分からないんです。「古典でここまではできるけど、ここが困っている」という課題は、実際の産業課題を持っているプレーヤーでないと分からない。そういう意味で、量子コンピューター業界とユーザー業界の連携はすごく必要だと思います。
―連携における課題や、それを克服するための方策について教えてください。
松岡:よく「まだ早いよね」と言われるんです。その価値をどう説明すればいいのか、会社によって新しいものの受け入れ方が違うので、そこは毎回苦戦します。
製薬企業さんは、特に新技術の導入に関してシビアですね。材料メーカーさんだと「面白そうだし、やってみよう」という感じで進むことも多いのですが、製薬企業さんの場合は、本当にその価値があるのかをすごく慎重に見ています。でも、それは当然だと思います。新技術を安易に取り入れていたら、経営が成り立たない。それはそれで正しい判断だと思います。
荒川:中外製薬は成長戦略の中でオープンイノベーションを重要なキードライバーと位置付けていますので、連携自体は推奨されるように思います。特に量子コンピューターに関しては、スタートアップやテック企業との連携が重要ですから。
そういった中で、連携して何を明らかにしたいのか? 中長期的な計画でのどういった位置づけか? そういったところをしっかりと言語化することを心がけています。松岡さんがおっしゃるように慎重に思われるかもしれませんが、単発では終わらない、連続的な技術開発、そして中長期的にみて双方にとってWin-Winの関係を築けると思います。
4. 3錠が1錠に! 量子創薬の未来
―5年から10年というタイムスパンで見たとき、量子技術は製薬業界にどのような変革をもたらすとお考えですか?
荒川:これまで当たり前として妥協していた部分が、5年後、10年後に大きく変わるみたいなことを期待しています。
松岡:なるほど、当たり前が変わるということですね。
荒川:先ほどの例ですと、今の薬理活性をもう一息、例えばエネルギーでいうと0.5 kcal/mol強くしたいとしても、なかなかその精度で予測することは難しく、人海戦術でwet実験してしまおうという状況になりがちです。でも、量子コンピューターを使って0.5 kcal/molの差も見極めることができれば、量子コンピューターを軸にした研究が一般化するかもしれません。
0.5 kcal/mol改善というのは、投与量で言い換えますと2~3倍減らすことにつながります。例えば、これまで1日3回飲まなければいけなかった薬が1回で済むようになったり、3錠飲まなければならなかったものが1錠で済むようになったり。患者さんの生活の質に直結しています。
松岡:それは素晴らしい説明ですね! 量子化学計算という非常に専門性の高い領域において純粋な技術的精度を求めた結果として見える差が、薬を飲む患者さんにとっても大きな価値を持つということですね。
―QunaSysとしては、今後どのような方向性で研究開発を進めていくお考えですか?
松岡:今日、荒川さんから伺った「3錠が1錠になる」というような具体的な価値が見えてきたことで、量子コンピューター業界として目指すべき方向性がより明確になりました。これまではキュービット数を減らすなど、効率的なアルゴリズムの開発に注力してきましたが、実は一歩手前の「モデル化」が重要かもしれません。
ここで大事なのは、量子コンピューター業界だけでは解決できない課題だということ。「ここは機械学習で解く」「ここは量子で解く」といった整理ができる専門家がまだいない。これからは、そういった異分野の知見を組み合わせながら、一緒に解決策を探っていく必要があります。
荒川:そうですね。是非一緒に解決策を探り、量子コンピューターが中外製薬の創薬研究に活用される状態を実現したいです。
インタビュー・記事執筆:嶋田 義皓(科学コミュニケーター)
編集:胡桃 里枝子(中外製薬デジタル戦略推進部)